野沢北高等学校 百二十周年記念誌 「真善美 ひたに追いつつ」
【抜粋】
第一章 二十一世紀の野沢北高校
概観
二十一世紀の野沢北高校をもっともよく知る甘利義夫(六六回卒)は、理数科発足当初を次のように語る。
「一九九四年、理数科最初の学年が入学した。私は普通科の担任として同じ学年に入った。理数科は元気がいいクラスだった。クラスの核になるような優秀な人間がいた。クラスのみんなは引っぱられていった。理数科の担任は楽だった。すべて生徒がやってくれた。
そして、普通科の中にも、理数科と張り合って頑張るという生徒がいくらでもいた。そういった意味でも、理数科をつくったことはよかった。学習成績や進学に十分成果があった。ちなみに、自分たちの学年は、卒業の時に、国公立大学現役合格者が百十六人に達した。」
甘利は、二〇二一年現在、非常勤講師として再び野沢北で化学を指導している。十数年前と現在の生徒を比較して、次のように語る。
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第一節 理数科の新設とその展開
理数科の新設
一九九四(平成六)年四月、普通科だけの高校であった野沢北高校に、新たに理数科が設置された。
発足当初のようすはどのようなものであったのか、当時理数科に直接かかわった教諭から話を聞いた。
一九九五年から二〇〇三年まで在職した柳澤英夫(七一回卒、数学担当)は、理数科三期生の担任であった。当時の担任クラスや、学校の雰囲気について、次のように語る。
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第二節 学力向上と進学成果への期待と熱気
一 野沢北高への期待
創立百周年
二〇〇一(平成一三)年、野沢北高は旧制野沢中学校以来の創立百周年を迎える年度だった。数年前から生徒や職員は、ことあるごとに「野沢北高校創立百周年」を意識した。
この年七月に開催された日輪祭は「創立百周年記念祭」として行われた。また当時の新津真澄(三五回卒)岳南会長は「・・・母校が佐久を拠点として、教育の源流となる責務がある・・・これからの新しい歴史の営みの中で、独自に高い理想を掲げて躍進発展することを願ってやみません」とし、吉田茂男(六〇回卒)学校長は「我が校にとっての貫く棒とは、諸先輩から脈々と伝わる文武両道・自主自律の校風そのものであり・・・健全な野沢北ミーム(生物学者ドーキンスの造語 筆者注)の継承と創造・発展に職員・生徒一丸となって努めて行きたい」と野沢北高のあり方や未来への期待を『岳南會ニュース第 号』で披瀝している。
この時期の野沢北高がどのように意識され、とらえられていたか、また地域における立ち位置はどのようなものだったかを示している。自主的精神にみちた人格の育成をはかり、佐久地域の伝統校として、学力と進学実績のさらなる向上を期待されていた。
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第三節 学校行事と生徒会活動
五 日輪祭、そして最後の第九
百周年特別企画
二〇〇一(平成十三)年七月、第三十四回日輪祭が「百花繚乱~咲き乱れよ若者たち~」をテーマに開催された。百周年特別企画として、造園業を営む保護者がしだれ桜、アメリカ花水木などを植樹し、四季の彩りを添えた。また、全校生徒職員が「野沢北100th」の人文字をつくり、記念アルバムの一ページを飾った。岳南会は、次の一〇〇年を展望した「野沢北百年の歴史展」ブースを設けて、理想とする野沢北キャンパス模型を展示し、見学者の注目を集めた。
翌年のテーマは「千載一遇~一〇一年目の祭典~」。新たなスタートとして手づくりパンフレットを制作した。印刷から綴じ込みまでスタッフ総出の作業、小さいながらもとても好評だったようだ。この三十五回日輪祭の合い言葉は「メインは文化班の発表」。演劇班「二人でお茶を~ノストラダムスを待ちながら~」、吹奏楽班の第七十六回定期演奏会、音楽班のオペラ「トゥーランドット」、そして英語班「オズの魔法使い」、美術、技研、茶道、将棋、地学、写真、家庭科、社会福祉の各班・同好会も一年間の成果を発表しようと力を入れた。
『百年史』には、一九六八(昭和四三)年の第一回日輪祭は「九〇〇人すべてにより、マンネリの声などふきとばし、我々が真剣に考え、体ごとぶつかってゆく真の若人の祭典」を目指したと記されている。
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第四節 学校生活と生徒の気質の変化
一 男女別生徒数および比率の推移
戦後の民主的な学校制度改革の眼目の一つが男女共学であった。長野県下では一九四八(昭和二三)年度より逐次男女共学が実施され、かつて旧制中学校であった高校では、翌一九四九(昭和二四)年度に長野北高校(現在の長野高校)と松本深志高校がまず男女共学となった。本校もその翌年度の一九四七(昭和二五)年度より男女共学となり、初めて女子生徒十三人が入学した。
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喫茶店文化とその衰退
かつて野沢には「白樺」、中込には「ぽけっと」・「明正堂」といった喫茶店があった。このうち、「明正堂」は明るくて垢抜けた雰囲気の店で、野沢北高生はそれほど多くは利用していなかったようであるが、「白樺」や「ぽけっと」には一般客に混じって、北高生をはじめとする多くの高校生が出入りしていた。
新海節生(七三回卒)・白石克典(七五回卒)らの回想によると、在学当時、「白樺」と「ぽけっと」は北高生の間で人気を二分しており、「白樺」派と「ぽけっと」派にはっきり分かれていたという。
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七 不登校生の増大と単位認定の柔軟化
文部科学省(平成十三年文部省から改称)により「学習指導要領」が十年毎に改訂されている。全国同水準の教育が保たれるように教育課程(カリキュラム)の基準が発表され、小・中・高と順次実施され、高校では戦後七度目となる学習指導要領が二〇〇二(平成一四)年から学年進行で実施されることとなった。『総合的な学習の時間』の新設により、基礎・基本を確実に身につけさせ「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力などの『生きる力』の育成」を目指したものであった。
指導要領改訂に対応し、二〇〇二年に野沢北でも「新教育課程」と「完全学校週五日制」が実施された。二十七代吉田茂男校長の時であった。
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第五節 新型コロナウイルス感染症のまん延と学校生活の変化
新型コロナウイルスの発生
二〇一九(令和元)年末、中国湖北省武漢市において病因不明の肺炎 が集団発生した。年が明けた二〇二〇(令和二)年一月九日、中国政府はその肺炎が新型コロナウイルスを病因とするものであると発表した。翌日には世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルスの感染拡大に警戒を呼びかけた。同月十六日、わが国においても初の感染者が確認され、翌月十三日には国内で初の死者が出た。それ以降、表1にみられるように、日本国内では断続的に七波にわたる感染がおこり、現在(令和四年九月)にいたっている。
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第六節 クラブ活動 この二十年
一 幸運と感謝
金環日食は、めったに見ることができない。日本での次の金環日食は二〇三〇年に北海道で、それから十一年後に北陸から東海地方で天気に恵まれれば見ることができるという。二〇一二年五月二十一日、雲間からあらわれた日輪が「金環」になった日、地学班は本校屋上で飯山北高自然科学部と合同観測に成功した。
地学班の活躍
伝統と実績ある学芸班が廃班になる二〇〇〇年代から二〇一〇年代に、入部者が多く活躍したのが地学班である。天文観測から内山の兜岩層の化石採集まで幅広く活動してきた。
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第七節 全国的に活躍する人材の輩出
人材の輩出
二〇一五(平成二七)年十月、岳南会の第六代高見澤俊雄会長(五一回卒)は、本校玄関脇に掲げられた垂れ幕を見上げた。そこには「祝 本校OB 油井亀美也宇宙飛行士の活躍をお祈りします」と書かれていた。
高見澤会長は、本校が輩出してきた人材の歴史に思いをはせる。その端緒は、一九一九(大正八)年、第三代与良熊太郎校長が先輩たる人材多き地に後輩の人材出ずるとして、後進は先輩を推し、先輩は後進を援くという主旨をもって「推援会」なる講演会を企画、開催したことにより、今なお、その伝統が受け継がれている成果かと翌年一月発行『岳南會ニュース』に記す。
本校における全国的に活躍する人材の輩出について、百年史以後にあたる二〇〇一(平成一三)年度から二〇二一年度に発行された『岳南會ニュース』および『北斗』に掲載された記事から、本校生徒、岳南会、地元佐久地域との関わりが深い方を分野別に紹介する。
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第八節 学力トップ層の流出と対応
般的に、中学卒業生の他地域への流出を考えるにあたっては、大別してつぎの二つの点に留意する必要がある。通学区制や学科、教育課程などに代表される制度的な側面と学校の立地する環境や校舎建築、さらには交通網などへの評価といったいわば心理的、意識的な側面である。学力トップ層の流出とその対応を記述するためには、現れた数字の背景を具体的、客観的な事実によって説明して全体像を明らかにする必要がある。したがって、必然的に制度的な側面に重心を置くことになることを予め確認しておきたい。
一 通学区制の変遷
旧第六通学区(佐久地区)における中学卒業生の流出は、学力トップ層も含めて第一義的には通学区制の変更がもたらしたものであると言える。通学区制の主な変更点と年代をまとめ、この章全体の背景の骨格を示しておきたい。
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第九節 開かれた学校づくりと各種評価制度の導入
一 開かれた学校づくり
開かれた学校づくりとは何か
かれた学校づくりとは、教育活動を学校だけで押し進めるのではなく、学校を取り巻く地域、さらには保護者や同窓生などと連携をはかりながら、学校の諸活動を推進していく一連の学校運営の方法である。開かれた学校づくりは、たんに、地域住民に体育館や校庭などの学校施設の開放をすることだけを指す言葉ではない。これは、前述してきたような外部に対して学校を開くことだけでなく、校内に開かれた学校づくりといった視点も重要であり、校内の教職員の間の意思疎通をより円滑に進めていくことも、開かれた学校づくりの一環といえよう。
学校が、こうした開かれた学校づくりを推進していくことになった背景には、学校とそれを取り巻く社会の関係の変化にともない、地域・保護者等との連携をさらに充実させていく必要性が生じてきたからに他ならない。「総合的な学習の時間(高等学校では二〇〇三(平成一五)年四月から実施)」や「完全学校週五日制(二〇〇二(平成一四)年四月)」の本格施行、生涯学習社会の進行なども背景にあったと思われる。
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第十節 普通科探究事始め
二〇二一年三月(令和二年度)、長野県教育委員会は、それが主管する未来の学校構築事業「高校改革~夢に挑戦する学び~」において本校を実践校とすることを決定した。その事業では、応募した学校の中からモデル校として「卓越した探究的な学びを推進する高校」「信州に根ざしたグローバルな学びを推進する高校」「国際バカロレア を研究する高校」「高度な産業教育を推進する高校」「少人数学級を研究する高校「」再編による新しい学校」「その他のモデル校」を指定する事になっており、その中で本校は、二〇一九年一月(平成三〇年度)に「卓越した探究的な学びを推進する高校」に応募し、同年三月に研究校として指定を受けていた。この事業に応募した学校は三十六校、その中で研究校の指定を受けたのは本校を含めて六校であった。その後、本校職員からなるワーキング・グループを中心とした検討会、数度にわたる県教育委員会と意見交換を経て、実践校として本格的に事業の対象校となったのである。
「探究的な学び」は本県のみならず日本全国で、これからの教育方針として主流となっているものである。本稿では、野沢北高校の普通科探究がどのように始まり、どのような経過を経て今日のような姿に至ったのか、また、今後進むべき方向はどのようなものなのかということについて、当時、将来構想委員長及び探究係主任としてその開発と導入に深く関わった立場から、年度を追って報告したい。
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第十一節 高校第二期再編の流れのなかで
本校と野沢南高校の再編統合を含む第二期再編計画は、長野県高等学校将来像検討委員会(山沢清人委員長・当時信州大学学長)が二〇一四(平成二六)年十一月から二〇一六(平成二八)年三月まで九回にわたる委員会の議論を経てまとめた「長野県高等学校の望ましい将来像について『審議のまとめ』(最終案)」の提言を受け、パブリックコメントをへて二〇一七(平成二九)年三月に成案として発表された「高校フロントランナー改革『学びの改革 基本構想』」から始まり今日に至っている。この第二期再編は必然的にそれ以前の第一期再編を総括し、課題を整理した上で進められていると考えられる。第一期再編の着手を「高等学校改革プラン検討委員会」を設置して審議を開始した二〇〇四(平成一六)年一月に置けば、この間第一期と第二期途中の本年(二〇二三年)まで通算で二十年近い歳月が経過している。そして両者に共通する基調は、いずれも少子化と生徒の多様化への対応であり、高校の再編統合という現実の痛みをともなう改革であることに変わりはない。
初めに、旧第六通学区における第一期再編を概観することによって、二十一世紀初頭の野沢北高校を取り巻く高校の地勢を記録しておきたい。
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第二章 百二十周年記念式典
※紙面をご覧ください。
口絵
※全画像は下記ファイルに掲載しています。
百二十周年記念誌部会員
部会長 田原実夫(六〇回卒) |
編集総括 | |
副部会長 青柳淳(六八回卒) |
執筆 | 第一章 第一節 理数科の新設とその展開 第二章 百二十周年記念式典 |
篠原秀郷(六五回卒) | 執筆 | 第一章 第八節 学力トップ層の流出と対応 第一章 第十一節 高校第二期再編の流れの中で |
甘利義夫(六六回卒) | 編集総括 | |
嶋崎稔(六八回卒) | 執筆 | 第一章 第二節 学力向上と進学成果への期待と熱気 |
木内幸康(七一回卒) | 執筆 | 第一章 第四節 学校生活と生徒の気質の変化 第一章 第五節 新型コロナウイルス感染症のまん延と学校生活の変化 |
小林吉朗(七一回卒) | 執筆 | 第一章 第四節 学校生活と生徒の気質の変化 |
西嶋玲子(七一回卒) | 資料準備 | |
新海節生(七三回卒) | 執筆 | 第一章 第三節 学校行事と生徒会活動 第一章 第六節 クラブ活動 この二十年 |
田澤直人(元校長) | 執筆 | 第一章 第九節 開かれた学校づくりと各種評価制度の導入 |
土屋政紀(七三回卒) | 執筆 | 第一章 第七節 全国的に活躍する人材の輩出 |
井出誠(七四回卒) | 資料準備 | |
伴野健一(七五回卒) | 執筆 | 第一章 第十節 普通科探究事始め |
武者泰雄(八〇回卒) | 執筆 | 第一章 第七節 全国的に活躍する人材の輩出 |
吉岡道明(六八回卒) | 編集協力 | |
木内美穂(七一回卒) | 編集協力 | |
𠮷澤晴美(七六回卒) | 編集協力 |